非効率な効率化にならないようにする。

効率化を考えて行われていることが、もともとあるものや本来持っているものを失わせているのではないかと思うことがある。
長い目でみたときに非生産的であって、逆に非効率なのではないか。ほんとうによいことなのだろうかと。

自動化できることが増えているけども、そのために自動化できるほどの単純なことが考えられなくなったらそれは退化ではないか。
簡単に数値化データ化できるけども、そのために数値やデータにできないものを読み取れなくなったらそれは退化ではないか。
パッケージ化していくと均一化して安定的になるけども、そのために選択したり決めたりする力が衰えたらそれは退化ではないか。
いろんなものが記録しやすく視覚化しやすくなっているけども、そのために記録できないもの見えないものを感じ取れなくなったらそれは退化ではないか。

便利になって効率化されて、単純なことや大量のものに無駄に時間や労力をさかなくてすむようになっている。
けれども、それに頼っていると、そういった単純で大量の無駄に費やされることさえもできなくなってしまう。
ただ無駄な時間や労力を避けて楽をするだけだったら、その作業に使っていた思考や感覚を使わなくなって失っていくことだから。

もちろん、何もかも失わずにいることがよいわけではなくて、変化により不要になるものもある。
けれども、何かを生み出すための力は失ってはいけない。
感じて考えて判断し創造するということができないと、主体的にいられなくなる。

効率よくできるということと、効率化されたものを使うことは全然違う。

たとえば、工程が多く複雑な作業があって、それを簡単にツール化したものがあるとする。
もとの工程を知っていて使える人や、ツールの意図や効果や内容を知っていて使っている人は、ツールがなくても元々のやり方や同様の意味のあるやり方を使えるでしょう。
状況の変化や技術の進歩などに合わせて、ツールを改善したりよりよいツールをつくったりもできるでしょう。
そもそもツールを使うべきなのかどうかや、やめるべきときの判断もできるでしょう。
ツールをただ使うだけの人だったら、ツールが使えないと何もできなくなるし、そのツールが効果なくなっても使っているかもしれない。

技術やデータに頼って、時間や労力が省けることは、効率よくするための手段で、それだけできればいいものではない。
状況や場や人に合わせて、最適なものを選べる、最善を考えられる。それが効率よくできるいうこと。

だから、そのように考えて行動するための力は必要で、失わないように衰えないように、感覚や思考を磨き続けることが大事です。

自分で感じること考えること、できていますか?

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